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2009年7月 6日 (月)

TD-1001R開発物語2 母校を訪ね、自分を振り返る

この時、大阪の母校、中学校、小学校を訪ねてみることにしました。
立花家へ向かう旅の途中、何かを探し求めていたのかもしれません。自分の中で、何か次のステップを踏む必要があることだけは確かでした。

ここを訪ねた経験がTDを生むきっかけにもなり、またTDに注ぐ魂を変えたと思うので、ここに書きます。
しかし、下記は私の自己紹介みたいになってしまっているので、読まずにパスしていただいてもかまいません。
昔の場所、たまに戻ってみるのも良いですよ。母校を離れて何年も経つ人はいちど訪ねてみてはどうでしょうか。何かを見つけることが出来るかもしれません。

M2ミーティングの後も秋はイベントシーズン。10月、11月とスケジュールがぎっしりで出かけられる状況ではありませんでした。そこで当時メカニックとしてディーテクニックに在籍していた、けんじくんと話合いました。「来週、大阪の母校を見て、その後、立花さんの家に行ってきたいだけど、4日間、留守にしていいか?」 これは当時のディーテクニックにとっては大変なことでした。今で言えば1ヵ月留守をするのと同じくらい当時の5日間は大切だった。彼は少し考えてから言いました。「いいですよ。残ったみんなで頑張ります。心配しないで行ってきてください。」こうして私は旅に出ることになったのでした。
しかし、こうして日間の休みを取るのことで、TD開発へと進んでいくことになったのです。
私は独立して3年目までは本当に3倍速で働いていました。自営で始められた方は皆荘だと思いますが、ランチの時間を取るのも困難なほど仕事に没頭していました。彼が「勘弁してくださいよ、出来さん、今無理です。」と言っていたら、そのままなんとなく立花さんを訪ねる機会を失い、運命は変わっていたかもしれません。

私は千葉県船橋市出身ですが、4歳から6歳まで大阪府豊中市で、7歳から19歳まで大阪府堺市の泉北ニュータウンで過ごしました。そやから、考え方は全くの関西人でした。それでも「レースのため」と19歳でひとり東京に出て来て、もう文化の違いに大ショック。言葉もなかなか直せず、苦労しました。関西人と気が着かれなくなるのに8年かかりました。それでも何とか順応し、アルバイト3つ掛け持ちでのレーシングカート、FJ-1600、フォーミュラトヨタ、F-3を戦い、乗れなくなったら必死のスポンサー活動を行っていました。
独立そしてディーテクニック設立で3年間です(レースをはじめてからは、突っ走った10年間です)。後ろなんて振り返ったことありませんでした。大阪の友達に会いに遊びにいってもトンボ帰りばかりでしたから、「昔住んでいた、自分の家の近くの場所を見ていないなあ」と、ふと思ったのです。
突っ走ってばかりではなく、一度立ち止まり、振り返ってみることも大事なのではないか。そう思い、小学校からの友人と昔遊んだ場所に行きました。小学校、中学校にも行ってみました。すっかり変わった景色の中、子供のころ、何を考えていたのかを思い出しました。
やっぱりクルマでした。スーパーカーのおもちゃで遊んで、自転車で走り回って、タイヤを減らしながら、限界で攻めていました。早く免許が取りたいと思いながら、車のカタログ集めをしていました。時間がゆっくり流れていて、1ヵ月、1週間という時間が凄く長く感じ、なんでも出来る気がしていました。
今は同じ時間でもとても長く感じます。充実しているとも言えますが、「短い時間で出来るかわからないこと、困難なことに挑戦したり、工夫したりしなくなってしまっているのではないか。やる前から諦めてしまっている部分があるのではないか?」そんなことを自問自答する大阪の旅でした。

ショックでした。子供のころ見た景色は全てサイズが違いました。豊中市に行くと広く見えた道は狭く、少し狭く見えていた道は今の車は軽でも入って行けないほどです。街は当時とは表情を変えていました。当たり前です、そこに住んでいたのは30年近くも昔なのですから。
遠いと思っていた商店街までの道はなんと3分も歩けば着いてしまいます。子供の時の感覚は、大人時間の20分くらいに感じたものです。自販機のジュースが50円とかくらいで、まだ缶コーヒーもウーロン茶もないころです。よく買い物のお使いをしてみましたが、今思うとここは6歳が1人歩きするには危険だと思いました。まあそれも勉強だったのでしょうね。母校はまだ健全にありました。ちょっと安心。

今度は小学2年生から高校卒業するまで住んでいた泉北ニュータウンへ向かいました。もう全然違います。当たり前ですね25年以上経っていたのですから。駅前のロータリーにクルマを止めて、電車に乗り、父に遊びに連れて行ってもらった記憶あるのですが、今はそのロータリーは一瞬も駐車出来ないほど混み合う場所となっていました。
当時新しくてピカピカだった駅前の風景は古びていました。もっとショックだったのはニュータウンです。希望の光に溢れていた街は当時ほどの輝きはありませんでした。近所の知り合いもさすがにみんな引っ越ししているようです。中学校に行きました。生徒より親たちの方が近い年齢だったりするのは当たり前なのですが、なんか変な気持ちですね。先生達もみんな凄く若い。「あの~、私卒業生なんですけど、○○年のころの先生とかって・・・。」中学校側は「え、そんな昔の人もう居るわけないでしょう。校長先生!」奥から校長先生が出てくるがなんと若い!やばい。「そうですね。さすがにそのころの方は辞められているかどこかで校長先生となられていると思います。せっかくですから校舎の中を見学していってください。」「ありがとうございます。」
当たり前のことですが、凄く狭い・・・。天井も低い。13段飛びが自慢だった階段も小さなものでした。生徒は物凄く子供に見えます。時が流れたのだと実感しました。生徒の数はどんどん減り、当時11クラスあったのに今は3クラスだと聞きました。私のいたころのこの中学は荒れていて、中3の授業などはまともに行われたことは少なかったと記憶しています。どこかで必ず喧嘩があり、いじめがあり、みんなが毎日不安を抱えているようでした。夏休みには窓ガラスが全部割られたこともありました。みんな何かに脅えている感じを受けたことを憶えています。先生もそうでした。
人と関わって生きて行くことの難しさを嫌というほど教えられた場所だったので、これまであまり見に来ようとは思いませんでした。当時私を支えてくれたのは、クルマへの興味とレーサーへの夢、そして外で習っていた空手の修行だったことを思い出しました。学校の雰囲気が良くないだけで、「人生全てつまらないことばかりかも。生きていてなんの意味があるのか。」と考えていた中学時代を思い出します。まだ学校と家庭しか知らない中でも必死に大人になろうとする少年時代の心を思い出しました。若い子供たちには夢と希望とスポーツが必要。何をしたらいいのか分からず、有り余る体力で毎日ひたすらランニングして、体を鍛えていたことも思い出しました。
中学1年生の時、小学校から研究していたエンジンの理想の模型を創り、技術展に出展しました。「将来のスカイラインGT-R用エンジン」として3000DOHC-TWIN TURBOで設計、バルブ挟み角が狭いペントルーフ燃焼室のモデルでピストン、コンロッド、クランクがちゃんと回転するカットモデルした。もう無心になって創り、「完全燃焼で抜群のピックアップなんだ!」とか生意気なことを言っていたことも思い出しました。カー雑誌を授業中読んでいて取り上げられたりしてました。中2からシャシーに興味が沸いてきて、それまでエンジンばっかりだったんですけど、サスペンションの形式が気になって気になって、研究したことも思い出しました。読書感想文は全てクルマの開発者の自伝みたいなので提出していて先生があきれていました。
そんな中、「いいかげんの代表、出来を学級委員にすればみんなサボれる」と推薦され、学級委員やったり、それが意外に真面目でブーイングがあったりしたことありました。
学校には失望していましたが、毎日、空手とランニング、筋力トレーニングを狂ったようにやって、空いた時間はクルマの勉強とクルマのプラモデル創りだけでした。
「自動車メーカーって、どのくらいデカイんかな?入社して頑張ってもドアの取っ手だけとか設計するのかな。好きじゃないクルマ担当なったらどうしよう。どうやったらスポーツタイプのクルマの開発セッティング出来るんだろう。テストドライバーか?それも難しそうだなあ。プロレーサーになっていっぱい勝ったら、メーカーのテストの仕事したり、自分で会社作って、オリジナルマシン作れるかな。」とか妄想してばかりいました。中学生の考えることですから失礼はお許しください。

小学校にも行きました。6クラスあったクラスは1つになってしまい、来年、統廃合するのだと言っていました。「あら、初期の卒業生の方ですね!よく、今いらっしゃいましたね。どうぞゆっくり見ていってあげてください。」
え、初期?卒業したころはかなり何年も卒業生を出していたので、私達は後のほうと思っていたが、私は6期生だった。だってこのころの5年って、もっとデカく感じていました。小学校はさらに狭く、古くなっていましたが、当時のままでした。
そうじをサボって隠れた体育館の裏、朝礼サボって暇を潰していたうさぎ小屋の裏、授業をサボって・・・ってサボってばかりの小学時代でしたが、真面目に生きていたらきっと思い出さないでしょうね。とにかく人をわらかす(笑わせる)のが好きでふざけてばかりでした。先生の横に机を置かれてみんなの方を向いて授業とかさせられたことも多かったです。自転車大好きでかなり飛ばしていたし、遠くまで出かけて、ディーラーでクルマのカタログもらって集めていました。
小学校4年の頃には、ジープやランクルなどの4WDに興味を持って、なんとオフロードを走ってみたくて、近くのホームセンターで格好良くジープを改造して乗っている人に話かけてみたら、「泉北ジーピングクラブ」の会長さんで、ジープに乗せてもらってあちこち行きました。今考えるとやばいですね。ジープのダートトラックのレースも見に行きました。頭の中はもう4WDばかりで、いつかジープに乗ってフロントウインド倒して走るぞと思っていたので、もともとオープン好きだったのかもしれません。箱を見つけると切って「ワニの人形?」を作っていました。月の満ち欠けに興味があり、1年間観測し続け、その結果を頼まれてもいないのにクラスの後ろの壁に貼っていました。あれは、なんだったんでしょうね。私の役目になっていました。
宇宙船にも乗りたいけど、やっぱりレーサーが良いと思って車を勉強。小学2年生の時にDOHCはなんで(ディーオーエッチシー)なんだろうと考えて、本を読んで勉強し、ついにはなぜOHCより良いとされているかについて調べていたことも思い出しました。へんな小学2年、3年の出来利弘でした。3年生のとき、「好きなことを先にやります。嫌なことはあとでやります。」と正直に作文に書いたら怒られて、「先生が正直に書けっていったのに、なにいってるの?」とか言っていたこともありました。「自分にとって必要なことはどんなに大変でもすぐにやる。必要でないことは勉強もしないし、絶対やらない。」自分はそれを徹底していた子供だったと改めて思い出しました。
自分にとって必要なこと、この世の中にとって必要なこと、自分の生きている業界にとって必要なことをもう一度、考え直しました。

街はどこも古くなるし、少子化も全国的問題なのですが、自分の知っているところで見るとすごく現実味を帯びます。そして5年、10年、20年という時間がどういう長さなのか理解し、そこから50年、100年を想像してみることができました。限られた時間の中で何をしたいのか。自分に問いかけました。

そして出た答えです
「自分にとって未知の世界へ勇気を持って、一歩踏み出すこと」
「次の世代に受け継いで行くべきものを残すこと」
「古き佳きモノを大切にしつつ、新しいチャレンジと驚き、意外性とそれに対するプロとしてのプライドを持った仕事をすること」

自然とそんな言葉が出てきました。


こうして歩いてみて分かったことは、いろんなものに興味を持ってもいつも心の支えはクルマでした。2000年、一日一食も難しいほど全くお金をもっていない状況でもクルマが支えてくれました。そこからでもここまで出来るという限界に、まず私は今挑戦中です。クルマはやっぱり興味を持たれるべきものだし、奥が深い。やっぱりクルマの世界で新しい楽しみ、ワクワク、ドキドキを届ける仕事をしたいとあらためて思いました。若い次の世代のためにも。

私は自動車業界の先輩たちに、たくさんの『夢』と『希望』と『勇気』をもらいました。今度は私達の世代から発信する番です。自動車におけるエンジニアリング技術は日本の宝です。この火が消えることはどうしても嫌なのです。今20代、30代だったり、今免許もないけどクルマが好きな子も必ずいると思います。人数の問題じゃなく、このブログを見てくれて、話のわかる人がひとりでもいる可能性があるなら、私はここに何でも書きます。その子の力になり、前進する力の基を届けたい。3年しっかりやったら、絶対なにか残るんです。それを見せたい。自分の力で踏み出す勇気を持って欲しいのです。そして自分らしいやり方で素晴らしい日本の技術力を、世界に誇る技術力を生み出して欲しいのです。まだまだやるべきことはたくさんあるし、日本人の得意とするところにチャンスがあると思います。クルマ業界でも良いし、違う仕事でも良い。楽しく元気に生きましょう。こんなアホな私ですが、好きなことに向かってたら、笑って生きていけるんやなと思って、楽しく見てもらえば幸いです。

出来利弘

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