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2009年6月24日 (水)

2000年、座学によるドライビング講座を開始 ディーテクニック物語2

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全日本F3参戦を目指し、走り回った日々。チューニングショップでの営業からの独立。そして2000年6月にドライビング教室を開講した。

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1996年F3のジュニアクラスチャンピオンとなった私は翌年、全日本F3への参戦を希望し、チームとの交渉、スポンサー活動などを行ったが、条件は多額の持参金であった。全てを使い果たし、世の中の経済状況は厳しくなる一方だった。1997年から1999年までの3年間、ほとんど全てのF3レースの水曜から日曜までサーキットへ行き、チャンスを探し続けたがそこには何もなかった。私は当時、あるチューニングショップの営業として働いていて、年間10レースもあるF3のため、たくさんの休みをもらう代わりに、他の時間は一生懸命、ショップのために働いた。「少しでも良い結果が残せるように」お客様のためになるようにと考えたこの3年半の経験が、とても大きな財産になった。当時私を理解し、協力してくれたスタッフのみんなは今も良き理解者であり、友人だ。
しかし、「レースに復帰することもできないまま長期の休みを年に10回も取り続けることはできない。仕事への気持ちも中途半端ではいけない。」その思いは強くなり、1999年10月、勤めていたショップを退職。あてもなく、一人歩き出す。身の周りのお金になるものを売り、なんとか生活した。そんな状況でも自分のロードスターM2 1001だけは何とか残していた。とうとう最後には、手持ちのお金は最後は1万円だけ・・・。本当に飯が食えず、少し稼いでも交通費に消える・・・それでも厳しい時は何度か飯抜きで暮らした。それでも自分に適した仕事でやり通したかった。

 当時はサーキット走行会に活気があり、そこでの講師の仕事がかなりあった。ロードスターのクラブ主催のものはもちろん、知り合いを通じて、BMWの走行会、日産車のグループの走行会にも呼んでいただき、講師料をいただく生活だった。サスペンションキットの開発、ダンパーの開発、ブレーキパッドの開発など、独立後、予想以上に多くの方からドライビングしてインプレッションするありがたいお仕事をいだき、なんとか生活できるかどうかという状況になった。このころお仕事をくださった皆様に対する感謝の気持ちは今も消えることはない(今も続くイベントの中には「私をシゴキに連れてってジムカーナ練習会」がある)。そこで私は『座学によるドライビング講座』を行うことを決意する。
 これは私の実践から得たドライビングテクニックの理論とメカニズムの関連性を判りやすく説明することで、クルマを意のままに操り、新たな世界を体験していただくために行うことにした。メカニズムはもちろん、「何を視点にして考えるのか」「どういうトレーニング、精神状態が有効なのか」をわかりやすく解くことにした。

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それには教室を兼ねた事務所が必要。「ドライビング講座に参加する人はクルマ好き。クルマで教室に通いたいはず。駐車場が必要だがそれほどコストはかけられない。100円パーキングのあるところは・・・駅前だけか。あ、ならば駅前に教室を作ろう!仕事帰りに電車でも来れるし。」そう思った私は千葉、埼玉、神奈川と駅前の教室になるような場所を探したが、どこも家賃が高い。そんな中、どうしても気になっていた場所が二子玉川駅前。たくさんのデパートとショッピングセンターがあり、気の利いたレストランや定食屋さんもある。ダメでもともとと不動産屋さんを訪ねるとなんと同じ金額!そう、駅前だとどこでも金額が変わらない。ならば好きな二子玉川駅前にと決定。改札から1分のビルの屋上建物でドラテク教室は開設された。2000年6月、ショップを退職してから半年後のことだった。

出来利弘

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