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2009年1月16日 (金)

Star Mazda参戦への道2 全日本F3-Jクラスチャンピオン

<第1期レース参戦、全日本F3選手権Jクラスチャンピオンまで>
なぜ、いきなりフォーミュラレースなのか!?そこから説明しなくては、最近私を知ったみなさんにはご理解いただけないと思いますので、平成の初頭の話をさせていただきます。

世界的に通用するプロレーサーとして認められるにはF3クラス以上のフォーミュラレースでチャンピン争いをすることから始まるのではないかと当時、私は思っていました。そのクラスで納得できるチャレンジをするまでは決して諦めないと。私は1989年からレーシングカートでレースに参戦し始め8年間レース活動を行いました。1992年からはFJ-1600、1995年はフォーミュラトヨタとステップアップ、1996年にはプライベーターとして参戦しながら、全日本F3選手権ジュニアクラスのチャンピオンを獲得しました。スポンサーとの話で翌年は新車で全日本F3選手権にチャレンジできる予定でしたが、当時の日本の経済状況は非常に厳しく、参戦を断念せざるを得ない状況、その結果、つい先日のスターマツダ復帰まで12年もの期間が必要とすることになるのです。
'98年、'99年とフォーミュラレースのチャンスはなく、GT選手権、S耐久レースの話もどんどん難しくなる一方でした。F3レースは'97年からの3年間、水曜~日曜までほぼ全戦を見学し、ドライビング、セッティングを学び、シート獲得のチャンスを伺っていました。そして'99年には全日本F3マシンをテストし、好タイムをマーク。いつでも本戦で戦える自信を持つことが出来ました。しかし、やはり状況は好転することはありませんでした。2000年、それまで日常務めていたカーショップを退職し、独立することを決めます。『レースチャレンジを腰を据えて行うため』です。先の見えない状況の中で、これ以上レースの見学で会社を休んでみんなに迷惑をかけたくないためでした。普通はレースを諦める方向になると思うのですが、私はそれまでの11年に青春の全てを注ぎ、レースのために全てを捨ててきました。『ちゃんとしたステージでチャレンジをしないで諦める』ことは断じて出来ず、チャレンジできる環境を作れる可能性のある選択として、『独立』を選択しました。本当をいうともうひとつ、世の景気の問題だけでなく、自分自身にチャンスを掴む能力がないことを痛感したためでもありました。狭き門であってもそこにいる人がいる。乗れなかったドライバーは様々な言い訳を作り、自分自身から逃げていたのではないでしょうか。私もその1人だったかもしれません。足らないものを見つけるため、やりかけたまま終わってしまい後悔しないために最も厳しい環境に身をおくことにしました。そして、最後は自分の会社のスポンサーであったとしても走ってやる!と。『速いだけのレーサー』では乗れない現実に落胆したが、今は、当時、乗れなくて良かったような気がする。今にして思えば、若さゆえの失態も多く、とても恥ずかしい。乗れていても長くはなかったでしょう。それを周りの人はわかっていたのではないかと思います。また、自分では行動した気になっていたが、『お金のないドライバー』としては、まだまだ行動力に欠けていたし、時代を読み取る能力にかけていた。心を入れ替えて挑んだ走行会の講師、ドライビングの個人レッスンの仕事はどんどん入り、東京都の田園都市線二子玉川駅前に座学によるドライビング講座教室『ディーテクニック』を始めることとなりました。



レーシングドライバー  出来利弘

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