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2009年1月16日 (金)

Star Mazda参戦への道 1 アメリカ、ロサンゼルスへ

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Star Mazda参戦のご報告をさせていただいてから、私たちが想像していた以上の反響、応援のお言葉をいただきました。本当にありがとうございました。
この『Star Mazda参戦物語』では、スターマツダに参戦することになった話させていただきます。

レーシングドライバー 出来利弘(Toshihiro Deki)
※写真は2008年11月7日インフィニオンレースウェイにて

好きなことを見つけ、決して諦めずその夢を追いかけて欲しい。そのために一歩踏み出す勇気を持って欲しい。人生は楽しむためにあります!大きい、小さいではなく、自分の価値観、自分のスタイルでチャレンジする『若きクルマ大好きファン』がひとりでも増えて欲しいと願い、ここに書きます。
以下は長文となりますが、どうかお付き合いください。

私、出来利弘(できとしひろ)は、最初からこういったF3以上のフォーミュラレースに出場することを目標に、生きてきました。それは子供のころから決めていたことでもあり、レース参戦のチャレンジを開始してからは今年で20年。2008年11月7日、ついにテストレースとして、2戦にスポット参戦するチャンスが訪れたのです。今は準備に追われ、これまで関わった人たちはあまりに多く、ご挨拶できないままですが、当時、現在も私を応援してくれた全ての人に深く感謝しております。本当にありがとうございました。まずは、今年、チャレンジしてきますので、どうか見守っていてください。

それは紹介、紹介、また紹介という人脈によって導かれたものです。2005年、ミスターRX-7、小早川 隆治(こばやかわ たかはる)さんからのお話から始まった。「出来さん、アメリカにスターマツダという、RENESISのエンジンを積んだフォーミュラがあってね。これが実に素晴らしいんだよ。是非、このレースをいちど観戦されたらいい。」ワンメイクレースであると聞き、ちょうどフォミュラトヨタやF4のようなパフォーマンスを想像したが、それ以上であるという。それから調べてみるとかなり本格的でこれはF3級なのではないかと思いはじめる。当時は「TD-1001R」という元マツダの立花 啓毅(たちばな ひろたか)さんと製作したNBロードスターベースのコンプリートカーをデリバリーして、それに追われていた(このコンプリートカー成功がなくしては現在もなかったでしょう。)。2005年1月にはTD-1001Rで初めての東京オートサロン出展をした際、稲田大二郎さんに「アメリカのレースとドリフトはいちど見なきゃいかん」と言われ、アメリカへを見に行く気持ちが高まった。2005年春、立花さんが関わっていたこともあり、TD-1001Rがクルマ&バイクのフリーペーパー「ahead」の表紙に使用される。aheadの代表取締役、近藤正純ロバートさんの計らいで、同年のロードスターメディア対抗4時間耐久レースにaheadチームから参戦することになる。これは、デビューしたばかりのNCロードスターによる耐久でプロが多数参戦する有名なレース。ここにディーテクニックの出来利弘と加藤彰彬(かとう てるあき)がドライバーとしてエントリーさせていただいた。その当時、aheadのデザインやメディア4耐車のカッティングシートデザインをしていたGRACENOTE 石田健作さんと出会う。ディーテクニックのレースカー、加藤のNCロードスター、出来のRX-8のカッティングデザインも彼によるもの。彼はその他、GT選手権のマシン、D1グランプリのマシンなども手がけているデザイナーだ。彼はD1侍プロジェクトの監督でもあった。D1ドライバー「ドリフト侍」とも友人となり、2006年12月、彼のアメリカD1応援に行くということで初めてロサンゼルスへと向かう。(彼とアメリカに行かなければ今回のスターマツダもなかったかもしれない。TDの成功がなければ、アメリカに出張する余裕もなかっただろう。)アーウィンデイルでのD1-GRAND PRIXを観戦後、アーバインにある北米マツダMNEO(Mazda North American Operations)の小早川 隆浩さん(小早川 隆治さんの息子さん)を訪ねる。「スターマツダがとても良いレース。是非チャレンジしてほしい。その他もミアータカップなど盛んに行われている。アメリカのレースにチャレンジしないか。」と誘われる。「必ずアメリカにいつかチャレンジする。そのための準備をする。」と言い残し、日本に戻り、「アメリカにオレが行っても大丈夫な体制に会社を調整していく。TDを生み出すために作った第2工場、エンジン工場を無くして、会社を軽量コンパクト化する。大きな場所への引越しも見送りだ。上手く行っているときにやることで利益が出る。これからの時代はフットワークの軽さと少数先鋭でなくては生き残れない。5年後くらいにきっととんでもない不景気が来る。レースだけでなく、その時に耐えれるようにする意味でもアメリカ文化を勉強してくることに意味があるはずだ。来年、5回くらいアメリカ行っても将来への投資としては意味がある。動かなければ始まらないんだ。加藤が1人でもコントロール出来る範囲にディーテクニックをする。その練習として、もうオレがいないと思って動いて欲しい。今年は全国のロードスターミーティングなど積極的に回るぞ!」と言い、レース、コンプリートカー開発に専念。2007年9月発売のNCロードスターNR-Aのコンプリートカー「TCR 2000」を発売する。同日行われたロードスターメディア対抗4時間耐久レースでは加藤彰彬がマツダ株式会社の「人馬一体号」で参戦。なんと予選でポールポジションを獲得する活躍で一躍注目を浴びる。TCR 2000の販売は予想以上に好調で、日々に追われ、時間だけが過ぎていった。そんな中、2008年、アメリカからビックニュースが届いた「Speed Source RX-8 Daytona Rolex 24 Win!!」 デイトナ24時間レースでRX-8が優勝したのである。
P1000540 しかもその報告に3月17日、アメリカからスピードソースチームが来日し、優勝報告をマツダ横浜研究所で行うという。そこに参加した人はわかると思うが、非常に興奮する良い発表会であった。もちろん小早川隆浩さんも来られていて、「アメリカの話はどうなった?もう1年以上経った。」「行きますよ、今年。」と報告。この報告会に参加しなかったら・・・全てはあと1年遅れてしまっていたかもしれない。モータースポーツとその優勝者だけが持つ独特の緊張感漂うイベントだった。そこにいたマツダの日本関係者たちからも「もういちどレースをやりたい!」という気迫が感じられた。そんな中、幸運にも日本のパーティレースRX-8マスターズに出場できるチャンスに恵まれる。いきなりの参戦だったが、「優勝したら渡米する!」と決めて挑んだ5月5日RX-8マスターズ開幕戦をポールtoウィン。5月12日、2回目のアメリカへと旅立った。
その日、加藤に成田空港からメールを送った「日本を頼む、俺たちの未来を切り開いてくる!」と。

出来利弘

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